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読書感想「日本二千六百年史」(大川周明、毎日ワンズ)と十七条憲法

歴史に学べと主張した戦前の右翼思想家―大川周明

「日本二千六百年史」は1939年(昭和14年)の発刊時に「不敬罪違反」として改定を余儀なくされ、発刊後はベストセラーになったにもかかわらず軍部から弾圧され、戦後はGHQから発禁処分を食らった数奇な歴史書だ。著者の大川周明五・一五事件連座して5年間服役し、戦後は民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたものの、東京裁判で前の席に座っていた東条英機の頭をポカスカやって、精神異常者として裁判所から放り出されたこれまた数奇な右翼思想家だ。

毎日ワンズが新聞で大きく初版の復刻版を刊行したと宣伝していたので書店で思わず買ってしまった。これまで右翼思想家の本を読んだことも講演を聞いたこともない。しかし、この本はこれまで読んだ歴史本の中でもトップクラスの面白さだ。たとえば鎌倉時代。なぜ武士の間に禅宗が広まり武士道へと繋がっていったのか、これまで考えたこともなかったことを考えるきっかけをこの本は随所で与えてくれた。そのような本は面白いのである。

受験勉強で覚えた日本史は私の頭の中では基本的に英雄史観だ。飛鳥、奈良、平安時代までは天皇家とアグレッシブな僧侶たち、鎌倉、室町、戦国、徳川時代は武将たち、明治、大正、昭和は政治家と軍人たちが歴史を引っ張ってきたという英雄史観。しかし英雄史観が誤りだということも知っている。時代の流れの中で個人は成立するのだ。

大川周明は言う。「吾らの現に生きつつある国家を、並びに吾ら自身を、正しく把握する為には、必ず国史を学ばねばならぬ・・・自己を知ることなくしては、正しき行動ももとより不可能である」。

「日本二千六百年史」に流れる大川周明の二つの歴史観

「日本二千六百年史」は古事記日本書紀に始まる古代もしくは飛鳥時代から第二次世界大戦前夜までの歴史を俯瞰したものだが、二つの歴史観を見て取ることができる。

一つは「日本精神の数ある特徴のうち、その最も著しきものは、入り来る総ての思想・文明に「方向を与える」ことである。それ故に吾らは日本精神を偉大なりとする。」

「方向を与える」という大川の歴史観ニーチェに端を発する。方向を与えることこそが偉大なる魂の力なのだ。そのため大川は方向を与えられる側の思想や民族を正当に評価する。たとえばアイヌ民族。「初め日本は恐らくアイヌ民族の国土であった・・・この憶測の根拠となるものは南は九州より北は奥羽に至るまで、日本の地名のほとんどはアイヌ語らしきことである」と。そのアイヌ民族に対して「往古のアイヌ人は、その強勇に於て日本民族の好敵手であった」と大川は述べている。もちろん勇猛果敢なアイヌ人を征服した日本民族こそ最強だとなるのだが、そのような言葉は一つもない。冷静に敬意と日本民族の営みに対して誇りをもって歴史を語るのが歴史家大川の矜持だ。万世一系天皇家の神格化も排除の論理も不都合な歴史を歪曲したり消してしまおうとする姿勢も、そこには微塵もない。大川の潔さが随所から伝わってくる。

この「方向を与える」最たるものが十七条憲法だが、それについては後述する。

もう一つ大川の歴史観は、私としてはとても賛同できるものではないが、右翼思想家らしい面目躍如だ。悪名高い豊臣秀吉朝鮮出兵。なぜ朝鮮に出兵したのかは私の長年の謎であるし、単なる無謀な戦略だとしか思っていない。梅毒で発狂したからだとする説もある。しかし大川は朝鮮出兵を高く評価する。

「日本精神の真実相は、統一の意志・支配の意志、而して優越の意志である。この偉大なる意志は、建国の当初より、常に吾国の英雄の生命に躍動していた・・・この意志は、吾が豊太閤に於て、そのあらゆる力強さを以って躍動した・・・豊太閤の眼には、独り朝鮮のみならず、世界の総ての国土が、あたかも大日本の一部なるかの如く映じた。朝鮮王でも、明国皇帝でも、ないしフィリピン太守でも、彼の眼にはあたかも薩摩の島津候、小田原の北条氏同様に映じていた。」

統一、支配、優越の意志が右翼思想家大川の中にあったからこそ五・一五事件に加わり、理論的指導者として太平洋戦争を後押しし、敗戦の衝撃に耐えられず、彼にとっての最大の戦犯である東条英機の頭をポカスカやったのだろう。

他者を受け入れる思想と天皇を絶対化せず歴史とみなす思想は軍部や官憲から弾圧を受け、支配や優越の思想は戦争を正当化するものとしてGHQから発禁処分を受けたのだ。

他者を受け入れ方向性を与えた「十七条憲法

今の政治のあり様からネット社会、ヘイトスピーチに至るまで、いたるところで他者を排除する、もしくは自らを絶対化する排外主義が跋扈している。

そうした中で大川周明の「十七条憲法」に対する評価は右翼思想家から発せられたとは言え排外主義に対して一石を投じているのではないだろうか。

「十七条憲法」は西暦604年、聖徳太子によって定められたとされる。「和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ」に始まる。ここまでが538年の仏教伝来とセットで受験生だったころに覚えたことだ。

この「十七条憲法」は大川によれば日本古来の神道の精神に儒教と仏教が流れ込んだ結晶であり、まさに海外の文化を受け入れ方向性を与えた日本民族の精神を体現したものにほかならない。

基本的に「十七条憲法」は支配する側のルールを定めたものだ。支配する論理の核心は60余りの豪族が群雄割拠し、勢力を競い合っていた当時において、豪族の一つであった天皇家を日本の中心に位置づけたことだ。

「三 詔(みことのり)を承けては必ず謹(つつし)め。君は則ち天、臣は則ち地・・・」。天皇の命令を受けたら必ず従え、天皇こそが天であり、臣下は地である。豪族たちにとっては驚天動地の宣言だっただろうし、「十七条憲法」の最大の歴史的な意義である。

特筆すべきは天皇を中心として日本を統一するための手段として仏教と儒教を巧みに取り込んでいることだ。

「二 篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり・・・」。

「四 群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう:官僚のこと)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるの本は礼に在り・・・」

仏教を信心することと民衆を統治するためには民衆に礼を尽くすことが重要だと強調したのだ。仏教と儒教の融合である。ローマ帝国スペイン帝国などもそうだが国家をまとめたり侵略するために宗教は常套手段となってきた。しかしそのやり方は多様である。

ローマ帝国の場合は民衆の間に既に浸透していたキリスト教を公認することで帝国の正当性を確保するといういわば受身的、後追い的な対応だったと言える(西暦313年)。それに対して日本の場合は神道がありつつも、伝来してから100年にも満たない仏教を国をまとめる有効な手段として位置づける能動的な対応である。しかもただ一方的に信心せよという上意下達ではなく、礼を尽くすという極めて双方向的な人間同士の行動規範も組み込んでいる。戦略的な対応と言えるのかもしれない。これを期に仏教はまず天皇家を始めとする支配する側の間で急速に広まった。それ以降天皇家は江戸時代が終わるまで忠実な仏教徒だったのだ。

先述した天皇中心を宣言した「君は則ち天、臣は則ち地・・・」に続く言葉も示唆的かもしれない。「天覆(おお)い地載(の)す。四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通ずるを得(う)・・・」。天が地をおおい、地が天を乗せて、四季は正しく回り、万物に気が通う。やはりここでもすべてが双方向的もしくは循環的である。これを大川は「和を以って貴しとなす」と合わせて神道の精神と言っているのだろう。

そのほか「十七条憲法」は支配する側の心構えとして、

●官僚たちは饗応や財物への欲望をすて、賄賂を受け取らず、1日千件の訴訟を厳正に審査せよ。

●官僚たちは、朝早くから出勤し、夕方遅くに退勤せよ。

●官僚たちの功績・過失をよく見極めて、それにみあう賞罰を行え。近頃は功績によらない褒章、罪によらない懲罰が横行している(情実人事などはするな)

●地方の官僚は勝手に民衆から税を取り立てるな。

●前任者が病気や出張などで不在でも、前任のことは知らないと言って仕事を停滞させるな。

●私心をすてて公務に当たるのが官僚の道だ。

●民衆を使役するのは冬の農閑期にせよ。春から秋までは農耕・養蚕などがあるから使役するな。農耕をしなければ食べていけないし、養蚕をしなければ着るものがなくなる。

いやはや当時はどういう世の中だったのだろうかと思いつつも、1400年を経た現代は当時とそれほど変わっていないのかとも思ってしまう。いま、現代の憲法改正論議が進んでいる。時代が異なるとは言え、基本的に憲法は国家の統治原則すなわち国を治める側のルールをまとめたものだ。それを国家の在り方として世界に向けて発信し、それが受け入れられることによって国際社会の仲間入りを果たすことができる。日本国憲法の出発点である。決して国民なり民衆の在り方が国家の在り方を決めるわけではない。なぜなら国民や民衆は世界のどこでも、単に支配される側の存在、税金を取られる側の存在でしかないからだ。

「十七条憲法」を見習って、戦争条項を変更したり、国民に義務を課したりするのではなく、政治家や官僚のあり方を憲法改正に盛り込んではどうだろうか。国民に礼を尽くせと。