I don't think so !

じゃあ、お前はどう考えるのだ!

海王丸と富山湾の曇り空

我が家にもやってきた"ネトウヨ"チラシ

先週、朝日新聞の朝刊を取りに行ったところ、写真のようなチラシが郵便受けに入っていた。朝から一日の出鼻をくじかれた感じだ、いやはや。

捏造を「アサヒる」というそうだ。そうか財務省の公文書の改ざんや捏造のことを「財務省はアサヒっている」というのか。「財務省アサヒるな!!」。

f:id:nakama1564:20180328102545p:plain

f:id:nakama1564:20180328102556p:plain

これは匿名のチラシで、「自費で作成、配布している」そうだ。私のウォーキングコースに大型街宣車を頻繁にとめている住宅があるので、右翼の住民が隣組活動でも始めたのだろうか。そうでなければそれなりの資金が背後で動いていることになる。

南京大虐殺はでっち上げ」や「従軍慰安婦は高級売春婦」だとする主張は、主張すればするほど日本を貶める効果しかない。その意味では私の方がはるかに優れた愛国者だ。「喝!!これ以上日本の品位を穢すな」。

敗戦を敗戦として、過ちを過ちとして、失敗を失敗としてを認め、そこを起点に国づくりを進め、戦後復興や高度経済成長を成し遂げてきたことに対し、その出発点は自虐史観だと一笑に付し、全面否定する。どれほどの証拠や証言を突き付けられても、不都合な事実にはまったく耳を貸さず、偏った根拠や意見に固執する姿勢は、ある意味、とても楽な生き方だ。

物事には表と裏、光と影、長所と短所、左と右があり得るが、現実は多くの場合、その両極の間に落ち、ふらふらと進んでいく。現実解を見極め、提示するには、両極をビシッと読み切る力量が必要になる。両極を読み切るには時間もかかるし、勉強もしなければならない。

企業が求めるのは、両極をきちんと視野に収め、柔軟にその時々の現実解を提示できる能力を持った人材だ。真逆の意見を持った社員を束ねていくリーダだ。たとえばシステムをスクラップアンドビルドするとき、既存のシステムのプラス面とマイナス面を読み切る必要がある。マイナス面だけを捉えて新しいシステムを構築するのは簡単だが、だいたいにおいて失敗するか、想定外のコストがかかったりする。マイナス面を改善しつつ、プラス面を維持することを目指すためには両極の見極めが何より重要だ。時にはプラス面の幾つかを意識的に犠牲にすることさえある。コストダウンを優先とするため、レスポンスや操作性を犠牲にするのは良くあることだ。しかし困ったことにレスポンスの遅さや操作性の悪さなどマイナス面を適当に列挙するのはとても簡単なことだ。誰にでもできる。企業のトラブルや不祥事が絶えないのは、簡単に仕事をするからだ。

この簡単な発想や生き方を上のチラシに見ることができる。しかし、世の中の動きを見ていると、簡単な生き方を選択する、もしくは簡単な生き方しかできない人が増えている気がする。裏づけや根拠のないツイッターの投稿や拡散が良い例だろう。安易、単純、簡単、無邪気の連鎖だ。

それこそ年寄りの偏った見方だろうって?そうであればいいのだが、とても気がかりだ。   

 

 

言語能力は思考力のバロメータ

バイリンガルの思考能力に関する調査は古くから世界中で行われており、言語学の分野では「バイリンガルの知能はモノリンガルの知能よりも低い」ことが知られている。そうでない人もいるが、それはもちろん優秀だからである。優秀ではない人口の8~9割を占めるわれわれ凡人がバイリンガルの環境で育つと、だいだいにおいてバカになるということだ。

「言語の限界が思考の限界」、つまり思考は言語で行うため、言語能力が低いと思考能力も低い。言語とは母語もしくは母国語のことである。日本人であれば小学生から英会話を習っても、たとえ米国に移住しても日本語で考える。日本語で考える力が思考能力にほかならない。考える力を向上させるためには日本語力を鍛えることが必要だ。英語と国語が弱いと東大の入学試験を突破できない。もちろんそれ以外の数学や物理が弱くても突破できないのだが。     

幼稚園や小学生から英会話教育をすると子供がバカに育つ

 そのため言語学者はもちろんのこと、教育界、海外で丁々発止と仕事をしたことのある人たちの多くが、小学校の英会話教育導入に反対してきた。しかし、自民党公明党の政府与党は聞く耳を持たない。日本語教育をしっかりしなければ教育勅語池田大作先生の著作物を読みこなすことも理解することもできないのにおかしな話だ。確かに海外で買い物ができる英会話能力の方が教育勅語よりは役に立ちそうだ。

「日本のことをきちんと話せるだけの教養がないとバカにされビジネスの世界でも相手にされない」といったビジネスマンの話は良く聞く。日本語で満足に自己紹介できなければ、英会話を身につけたところで、やはり自己紹介できない。日本語の語彙力が低ければ、いくら英語を勉強しても語彙力は低いままだ。小学生の会話は日本語にせよ、英語にせよ小学生の会話なのだ。実に単純な話だ。

思考能力の低いバイリンガルを通訳に使ってはならない

東南アジアから12歳の時に親に連れられて来日し、帰化した知人がいる。両親も現地の人だが頑張って働いて学費の高い日本の私立大学を卒業させてくれたそうだ。もう40歳近くになるのに日本語の発音はそれなりのレベルだ。日本語での会話も何を言っているのか分からないことが良くある。東南アジアの会社で通訳として紹介されたのが知人となったきっかけだが、確かに彼の現地語はネイティブだ。しかし通訳してもらってすぐに分かったのだが、彼の通訳を現地の人は一生懸命に聞いているのだが、だいたい怪訝な表情をしている。私の話が伝わっていないのは確かだ。そこで表現を変え、再度、通訳してもらう。これを繰り返して現地の人が合点のいった顔をして、私を見てニコッと笑ったのを確認してから次の話に進めるしかなかった。だから打合せ時間が長くなる。長くなると私の話や現地の人の質問の通訳はどんどん短くなる。最後は何を彼らは聞いているのかと問いただしても「いやつまらない話をしているだけですよ」と完全な省略モードに入る。

夕食の接待を受けたときは、くつろいだ雰囲気だったので冗談を言ったつもりだったが、これが失敗だった。まず、通訳の知人が怪訝な表情をし、通訳してもらった現地の人はさらに怪訝な顔する。アルコールが入り言い直すのも面倒だったので「この食事は美味しいですね」とか「この材料は何ですか」と小学生のような会話を通訳してもらうしかなかった。

そこではたと気づいたのである。彼の現地語能力は来日した12歳のときのままなのだ。現地語で中学、高校の教育を受けていないから仕方ないのだ。したがって思考能力も12歳並みなのだ。大人の会話や冗談は小学生には理解できないということだ。彼との日本語での会話も良く分からないことが多々あったのだが、現地の人たちも私と同じ状態だったのである。結局のところ小学生を介して仕事の話をしていたのと同じだったのだ。

母国語の言語能力が思考力を決定するのである。       

 テレビでお笑いタレントの下品語にさらされると子供はバカになる

最近とみにテレビが下品になった。ため口と下品語のオンパレードである。「バカ」、「アホ」はテレビの日常用語だ。下品語でうるさいCMや食事時に下痢止めやトイレ関連商品の宣伝を流す下品なCMも多い。下品語の特徴は発する言葉が短く、うるさく、語彙が少ないことだ。つまり論理的ではなく、感情を少ない言葉でストレートに表現する。たとえば「やばい」という言葉の意味は状況によって変化する。相手をけなしているときにも、褒めているときにも使われる。語彙が少ないから自然とそうなるのだ。状況を察して「やばい」の意味を正しく把握しないと「空気が読めない」とレッテルが貼られる。

ビジネス文書は分かりやすさと誰が読んでも同じ内容として理解されることが必要だ。そのためには言葉の定義が重要になる。一つの文章の中で同じ言葉が異なる意味で使われたら理解しづらくなるが、そのような文章は意外と多い。たとえば「コミュニケーション能力が低い」という場合、「コミュニケーション」の定義がなされないまま、文脈の中で「挨拶ができない」、「パワーポイントの使い方が下手」、「メールの表現が不適切」、「人と接するのが苦手」、「部下に対して高圧的である」と意味が変化してしまうと、一体全体書き手は何が言いたいのか、何を問題だと思っているのか分からなくなるし、読んでいる方としても使われている言葉の意味が曖昧だと、すごく疲れてしまう。

そこで意味を問いただすと「いや全部ですよ」と平気で言う。「全部」という表現も良く聞く言葉で、語彙力不足を物語る常套句だ。そうなると提案書としては最悪の総花的、羅列的な内容になる。体系的でなく、焦点も定まっていない総花的な提案はだいたいにおいて受け入れられないし、やらせたところで失敗するだけだ。

テレビから逃げるわけにはいかないだろうが、それでもお笑いタレントの下品語は百害あって一利なしだ。子供は下品語しか使えないバカに育ち、ビジネス文書を満足に書けない大人になるだけだ。

言語能力の貧しさは、思考能力の貧しさにほかならない。お笑いタレントを見ていると良く分かる。あのように子供は育つのだ。ぞっとする世の中だ。

下品語が蔓延し優越感溢れるネット空間

「能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、実際よりも高い評価を行ってしまう優越の錯覚を生み出す認知バイアス」(Wiki)をダニング=クルーガ効果といい、米国の企業では熱心に対策を講じている。そのような人材を採用したり、重要なポストにつけたりさせないためだ。

そのような口先だけの勘違い人間は昔からいたのだが、ネット空間がそれに拍車をかけている。米国のITベンチャーの大半がどうもそうらしい。あきれるほどレベルの低いプログラムの売り込みが多いという。シリコンバレーが勘違いしたアホの巣窟と言われるようになって久しい。投資家の腕の見せ所は勘違いしたアホの中に埋もれているキラリと光る人材の発掘なのだ。

ネット空間における下品語の蔓延は思考力の低さを端的に物語っているのだが、ビジネス文書などを普通に書くことのできる人間は下品語を使うことができる。下品語を使って下品な自分を演出して、ネット空間で暴れさせることもできる。しかし下品語しか使えない人間は下品なまま、一方的に下品語を垂れ流すだけだ。提案書などを仕事として書かせても雑文しか書けない。論理展開できないから説得力のある文章にはならないのだ。提案力とは説得力であり、説得力とは論理力であり思考力なのだ。

ネトウヨと呼ばれる現象はダニング=クルーガ効果の典型だろう。「優越の錯覚」は当然のことながら権力志向になる。優越感とは高みに立つことだからだ。かといって権力を叩くほどの知識や技量はないから、権力側の発言を引用して野党やデモ参加者を叩いたり、弱者や少数者を上から目線でバカにしたり、ヘイトスピーチに走ったりする。引用や他人を見下す発言を繰り返すことで、それが自分自身の知識や意見あるいは自分が高みに立っていると錯覚して、最後は自分は絶対に凄い、完璧だという全能感に行きつく。権力との一体感、これがネトウヨと呼ばれるネット空間におけるダニング=クルーガ効果だ。ホームレスの襲撃と根は同じだ。

小学生後半から中学生の反抗期にネット空間で「優越の錯覚」に陥ると最悪だ。あれこれ思い悩んだり我慢したりすることもなく、無邪気に下品語をネット空間に垂れ流すことによって、下品語で自己完結し、思考力が弱いままに育ってしまうからだ。それ以降、たとえ勉強したとしても単語の数が多少増えるぐらいで、下品語による思考力の弱さを脱することができず、反抗期の未熟さのまま大人になる。オンラインゲームでチャットをやっても、この手の相手はつき合いが長続きしない。大半は一方的に下品語や罵詈雑言を繰り出して、さっさとどこかに行ってしまう。結局のところ、長続きするのはごく普通にチャットのできる人たちばかりだ。ネット空間で普通にチャットのできない人間は現実空間でも普通に会話ができない。

言語能力は思考力のバロメータなのだ。ときには生き方そのもののバロメータでもある。

 

 

 

 

「書き換え前の文書を見ても、私や私の妻が関わっていないことは明らかだ」

多くを語る必要はないだろう。

土地売買の決裁文書に「いい土地ですから、前に進めてください」という安部昭恵名誉校長の言葉が記述され、
f:id:nakama1564:20180315130713j:image
この写真が添付され、決済印が押されて土地の売買が成立したのだ。

少なくとも財務省は総理夫人が関わっている案件だと認識して土地の売買を行ったことは事実だ。

いったい全体どこから「妻が関わっていないのは明らかだ」となるのだろうか。

安部総理の日本語がおかしいことだけは明らかだ。

3.11報道に見る原発政策見直しの流れ

今年の3.11報道でも当然のことながら福島原発事故の処理の様子が取り上げられていたが、明らかに今までとは違う流れになってきた。調査データや行政文書の改ざんを見せつけられると、テレビ局や原発推進の論陣をはってきた評論家とて「原発の方が安い」とする政府の資料を信じて、そのまま放送したりコメントしたりするわけにもいかないだろう。いったんタガが外れると政府が先送りしたかった不都合な真実が次々と明らかになる。

事故処理費用の総額が50兆円から70兆円とテレビで語られ始めた

未だに政府は原発事故の処理費用については22兆円との試算しか公表していない。しかし、昨年3月に日本を代表する民間シンクタンク(社)日本経済研究センター(東京)は福島原発事故の処理費用が50兆円から70兆円に膨らむ可能性があるとして、「国民負担が大幅増の恐れがあり、国の原子力政策の見直しが必要だ」と提言しているのだ。この50兆円から70兆円という金額がようやくテレビでも語られ始めた。

福島原発の溶け落ちた燃料デブリの映像も盛んに放送されたが、あるコメンテータが指摘していた通り7年たってようやく溶け落ちたデブリの一部の写真撮影に成功しただけで、実態の把握にはほど遠いのが実状だ。

f:id:nakama1564:20180312134721p:plain

テレビで放送された燃料デブリと思われる映像

さらにはデブリの取り出し方や取り出したデブリの処理方法はまったくの未解決である。未解決であるから政府はこれを除外して22兆円と言っているわけだが、実際には天文学的な金額になるのは必至だ。50兆円から70兆円という数字が意味するところだ。

加えて既存原発廃炉費用の負担が重くのしかかる。廃炉しようにも原子炉など使用済み核燃料以外の膨大な量の放射性廃棄物の処理方法や捨て場所がまったく決まっていないことも、最近、報道されている。電力各社は国策でやってきたのだから政府がなんとかしてくれること(つまり税金の投入)を期待しているようだ。原発の運転を延長させることで問題を先送りする計画だったのだろうが、福島原発事故でそれもままならず、原発の抱える問題が噴出しつつあるのだ。

政府も電力会社も盛んに再生可能エネルギーにすると電気代が上がると言っているが、原発の処理費用に伴う国民負担はその比ではない可能性が極めて大きい。「国の原子力政策の見直しが必要」とはそういうことだ。

TOSHIBAという会社の不思議

今回の福島原発の報道で目立ったのが外観に変化のあった3号機だ。

f:id:nakama1564:20180312135526p:plain

f:id:nakama1564:20180312140011p:plain

福島原発3号機 核燃料取り出し用カバーと内部映像(出典:東京電力

違和感を覚えたのは内部映像のTOSHIBAのロゴである。原発安全神話の一翼を担い、自ら建設した原発が事故を起こして放射能をまき散らしたメーカーが、最も目立つ位置にロゴを大きく掲げている様子が全国放送された。私はこの映像を見て目を疑ったが、これは放射能被害を受けた住民や大幅に給与カットやリストラされた東芝の従業員、その他大勢の国民の神経を逆なでする映像ではないだろうか。

確かに3号機は原子炉から発電機、付属設備にいたるまで東芝製だ。だから責任は東芝にもあるとする懺悔の気持ちを込めた意思表示ならまだ理解できる。しかしそれはあり得ない。なぜなら東芝原発事業の失敗で死に体になっているため1円たりとも責任を負うことはできない。それどころか事故処理で生き残るしかないのかもしれない。普通の神経であれば、何らかの事情でロゴを入れる必要があるとしても、目立たぬよう隅に小さく入れるのではないだろうか。

原発推進者たちも再生可能エネルギーが必要だと言い始めた

少し前まで原発はベースロード電源として必要だと主張していた評論家や研究者たちの言動も変化してきた。「私たちも再生可能エネルギーの拡大を目指して努力している」「問題はありつつも再生可能エネルギーは絶対必要だ」と主張するようになった。極力、原発には触れないようにしているのだ。

政治家の変わり身は早く、以前から自民党公明党の与党議員たちはそう主張しているし、積極的な再生可能エネルギーの推進者のような顔をしている。

いまやテレビで原発が必要だと主張しているのは石坂浩二ぐらいしかいない(電気事業連合会のCM)。その意味で石坂浩二は潔いのかもしれない。

ベースロード電源としての原発の旗印を下ろさずに、裏では賛成しておきながら、もしくは反対せずに、表では再生可能エネルギー推進者のような顔をするのは卑怯としか言いようがない。なぜなら今までもそうであったからだ。単に原発推進の言い方を変えた方便に過ぎない。原発をベースロード電源と位置づけている限り多額の税金が原発に流れ続け、幾ばくかの税金が再生可能エネルギーに流れる構造は変わらないのだ。

世界の再生可能エネルギーの動向が放送されるようになった

福島原発以降、欧州など再生可能エネルギーにシフトした国は多い。ドイツのメルケル首相が福島原発事故を見て「日本が制御できないものをドイツが制御できるはずがない」と言って再生可能エネルギーに大きく舵を切った。それに対しては「ドイツはフランスから安い原発電源を買っている」とか「ロシアの天然ガスを簡単に買える」と言った論調が出回っている。原発をやめたのは間違いだと主張したいのだろう。しかしドイツは電力の70%を原発に依存しているフランスに対して電力の輸出国である。石炭火力発電が40%近くあるとはいえ、再生可能エネルギーの比率を33%と徐々に増やしている。

www.renewable-ei.org

イギリスでは大規模な洋上風力発電所が稼働していることも放送されていた。福島原発事故を契機に電力政策を見直した国々の成果が徐々に軌道に乗り始めている。そのため世界の大きな潮流がテレビでも報じられるようになり、国民もそれを知りつつあるのだ。

一方、日本はどうだろうか。昨年になって、ようやく政府は1兆円投じて失敗した「もんじゅ」の廃炉を決定したものの、電力会社は送電線の接続拒否により再生可能エネルギーの進展にブレーキをかけ、政府は未だに「原発の方が安い」と主張している。

政府のこうした姿勢が日本を世界の潮流から乗り遅れさせているだけでなく、新しい分野に果敢に挑戦する気概や精神すら削いでいるのではないだろうか。

世界の再生可能エネルギーの紹介は、こうした日本の姿に一石を投じるものだ。

 

 

 

 

 

森友・加計学園問題は6兆円の公共事業費や5兆円の防衛費など税金の使われ方を問うている

コンセンサスの形成は組織維持の大原則

企業や行政機関を問わず、組織は基本的に保守的である。組織を維持できる能力のある人材が出世するからだ。しかし保守的であるだけでは組織は存続しない。当然のことながら新しいことにチャレンジする革新的な取り組みも必要だ。そのため革新的な人材も出世する。保守と革新のせめぎ合いのバランスをどう取るのか、トップの裁量が問われるところだ。

保守的な施策の基本は前例主義である。既存業務という組織最大の存在理由を継承するためには前例主義が基本になる。企業にあっては主力の商品やサービス、行政機関にあってはさまざまな既存の行政サービスやこれまで押し通してきた各種施策の継承である。時代の流れに応じた最適化も当然行われるが、それは慎重に進められる。

革新的な施策の基本はコンセンサス主義である。革新的な施策の多くは失敗したり、さまざまな軋轢を生じさせる。東芝のように原発事業に失敗すると企業の存続が危うくなるし、新しい事業にヒトやカネが費やされると、既存業務との間に軋轢も生じる。だから事前のコンセンサス形成が重要なのだ。

森友・加計学園問題も同じだ。総理の「岩盤規制にドリルで穴を開ける」という方針は官僚組織からすると革新的な取り組みを意味する。とすると穴の開け方すなわちコンセンサス形成が重要になる。コンセンサスを形成するためには、そこに至るまでの詳細な経緯もしくは提案理由と責任者の明確化が必要不可欠だ。それが書き込まれてはじめて、上位組織なり上位者は承認を与えることができる。

巨額な税金が白紙手形で使われているという疑念 

この間の国会質疑では森友・加計学園問題には多くの特例があったことを財務省も認めている。野党は特例が多すぎると攻め、総理以下自民・公明の与党議員は岩盤規制に穴を開けるのだから数多くの特例は当然だと言い放ってきた。

規制緩和するのであれば特例が多いのは当然のことだろう。しかし問題はその進め方だ。特例がいくら多くても説明責任がしっかりと果たされれば、見解の相違あるいは政府の方針、場合によっては総理の裁量の範囲だとして納得する国民もそれなりにいるはずだ。

しかしこの間、行政組織がやってきたことはおよそ説明責任とはかけ離れた文書の破棄や黒塗りの連続だった。加えて今回朝日新聞のスクープで明らかになりつつあるのが、文書の偽造や改ざんだ。

改ざんの内容が森友学園に対する土地売却の経緯と理財局長承認の削除だったのは象徴的だ。不完全な経緯と誰がゴーサインを出しのか不明な文書は、いくら長い文書であっても白紙手形に等しく、組織内のコンセンサスを得ることはできないし、それを書き込まない官僚はいないのである。官僚は白紙手形を切りはしない。「官僚はバカだ」と言い放った政治家は何人もいたが、官僚はそこまでバカではないし、どちからというとバカだと言った政治家や私なんかよりはるかに賢く優秀だ。

文書の偽造や改ざんは、する方にとっても極めてリスクが高い。なぜなら、誰がこんないい加減な文書を作成したのか、誰がそれに承認を与えたのかの責任が問われるからだ。それは組織人として無能力というレッテルを貼られることに等しい。

こんな調子で年間6兆円の公共事業や5兆円の防衛費が使われているのではないか、忖度のもとに白紙手形が乱発されているのではないか、森友・加計学園問題はそのような疑念を抱かせる問題なのだ。      

 

 

 

「頭に来てもアホとは戦うな!」(朝日新聞出版)未読感想文―アホと戦わないから、アホがのさばる世の中になってきた!

書店で「頭に来てもアホとは戦うな!」(朝日新聞出版)を見たとき、そうだろうなと思ったことを良く覚えている。入り口付近の棚に置かれていたので売れているのだろう。しかし本を手にすることはなかったし、今もって読んでもいない。なぜなら、私のサラリーマン人生はある意味、アホとの戦いの連続だったからだ。

私が対峙してきたアホを定義すると、だいたい次のようになろうか。

1)人から学ぶことができない、もしくは学んだフリをすることが好きで、人の言ったことや書いたことを良く披歴するが、それを実行することはなく、学んでいないことがすぐに露呈する(学習能力の欠如)

2)人の意見を聞いたり受け入たりすることができず、常に自分の考えや行動が正しく、それを無理やり周りに押しつけようとする(自己絶対化)

3)罵詈雑言、誹謗中傷、足の引っ張りが強烈である(他者攻撃)

学習能力欠如、自己絶対化、他者攻撃が三位一体となった筋金入りのアホは昔からいるし、年齢や性別も関係ない。

かく言う私も若い頃、別会社の先輩から酒を飲みながら「自分を相対化しろよ」と何度も言われたことがある。その先輩からすると私もアホだったのだろうが、注意されるたびに、その意図が理解できる気がしていた。エラそうにしていたのだ。自分を相対化しろよとはエラそうにするなよ、という意味だ。幸せなことにサラリーマン人生の中で、私には尊敬できる先輩が4人もいた。その中の一人だったので素直に注意に耳を傾けることができたのだ。

アホと対峙しないと敗者になるだけ

アホの攻撃性は、アホだから仕方ないのだが凄まじいものがある。サラリーマン人生を長くやっていると、何度もアホの攻撃を食らったし、相手の人格を完全否定するようなアホの下品な攻撃も見てきた。だから「アホとは戦うな!」という本は一面正しい。逃げるが勝ちである。

しかし、ちょっと待てよ、である。

私の場合は、それなりにプライドもあったから、反撃したり、すかしたりしてきたし、立場上もしくは状況的にそれができない場合は、酒を飲んで忘れるようにしてきた。

アホに対する処方箋は、今のところ二つぐらいしか思いつかない。

①尊敬できそうな上司や先輩をつける 

②恫喝して黙らせ、できそうな仕事を与え、それだけやらせる 

①は体育会系だと先輩は絶対的存在、絶対服従の存在なので簡単なのだが、アホは精神論が好きな割には人生の先輩や上司という関係を完全に無視する。事実、温厚な上司や先輩に向かって罵詈雑言浴びせかけている光景を何度か見てきた。かといって尊敬に値する上司になることも、そのような管理者を育成することも絶望的だ。だから①の処方箋はなかなか成立しない。

②が基本的には有効であるが、そのような立場になれる人は少ないだろうし、最近ではパワハラとしてこの処方箋は封じられつつある。だから有効ではあるが処方の仕方が難しい。いやはや面倒な世の中になってきたものだ。

しかしアホから逃げてはならない。アホがいるからといって会社を辞めてもならない。一度逃げることを覚えると、どこに行ってもアホはいるから、逃げ続ける人生を歩むことになりかねない。逃げるが勝ちではなく、逃げるが負けになるのだ。逃げるぐらいなら、まだ、対峙しつつも無視せよ、である。それでも会社を辞めざるを得ないときは、アホがいるからではなく、それ以外の前向きな理由づけをきちんとしてから辞めるべきだろう。

年功序列の社会がアホを蔓延させている

おおよそアホは自ら仕事の成果を上げることができないので、欧米では早晩淘汰されるのだろうが、困ったことに日本は終身雇用の年功序列である。足を引っ張ってきたり、罵詈雑言を浴びせてきただけのアホでもある年齢に達すると出世する。時にはそれが元気が良いとか部下に厳しく言える人材だと評価されて早く出世したりする。あるいはアホほど部下がやったことを自分がやったと喧伝して出世する。

誰から見てもアホだと分かっている人間を出世させるときの常套句が「立場が人をつくる」である。アホでも管理職にすれば管理職としての責任を自覚するだろうし、自覚してもらわなければ困るという期待感である。しかし残念ながらこれは年功序列制維持の方便でしかない。「立場が人をつくる」のが事実なら管理職や役員の多い会社ほど成長するだろうが、そんなことはあり得ないのである。

こうして日本においては年功序列により、アホがのさばり、現場で働く人たちが救われない会社が増加している。

米国ではネット社会がアホの増殖に拍車をかけているものの、それなりに対策も講じられているようだ。たとえばグーグルなどの検索機能が自分は何でも知っているという全能感に溢れた勘違いアホを生んでいるとして、その研究と対策が大学や企業でも盛んに論じられている。米国にはトランプ的人間が多いのかもしれない。トランプ大統領の最大の功績はアホの姿を分かりやすく見せてくれていることだ。

最近、企業の不祥事が続発し、技術立国日本のブランドが揺らぎつつあるのもアホが蔓延してきたからではないだろうか。

仕事の進め方を改善しようとすると思いっきり足を引っ張る、足を引っ張るだけでアホは自ら具体策を提示しない(できない)、新しいことに挑戦しろ、失敗したらオレが責任を取るなどと勇ましいことを言っている割には、新しい挑戦に対しては失敗したら誰が責任を取るのかと罵詈雑言を浴びせたり、あれは絶対に失敗すると吹聴して回って足を引っ張る。ちょっとした失敗や不具合を見つけると強烈な鬼首攻撃を繰り出す。

あるいは人の意見を聞かず絶対に自分は正しいと思い込んで勝手に物事を進める。報告もしない。問題が発覚しても悪いのは上司や同僚、部下あるいはパソコンやマイクロソフト社のせいだと強弁する。

だから普通に考えれば信じられないような不祥事や失敗が後を絶たない。厚労省裁量労働に関する調査データのメイキングも、アホが命じたのか、アホがやったのかのいずれかだろうが、あまりにも都合の良すぎるバレバレのメイキングだ。加えてそれを単なる野党の難クセと言い放つ与党議員、川崎重工の新幹線の台座問題、リニア新幹線の談合などなど、イケイケドンドンのアホが蔓延しているとしか思えない出来事ばかりだ。

どこにでもアホは必ずいるのに、アホをのさばらせ、制御できなくなっているのだ。

だから企業においては生き残りをかけてアホと戦える人間はアホと戦うしかないし、朝日新聞出版は「アホと戦うな!」などと言わずに、アホな権力者やその取り巻きと戦わなければ、日本の存続は危うい。アホは、いまそこにある危機なのだ。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

踏み絵となる立憲の原発ゼロ法案―早くも希望の党が脱落か?

以前のブログで立憲民主党原子力ムラの電力総連と袂を分かって「原発ゼロ法案」を3月11日まで提出すること、「2030年までに原発ゼロ」の公約を掲げ、グリーンイメージを振りまいて東京都知事になった小池氏の希望の党がどのように対応するのか注目する必要があると書いた。

f:id:nakama1564:20180302171020p:plain

希望の党公式サイトより 2018年3月2日現在)

案の定である。数日前の新聞報道によると2030年を削除する方向に希望の党が舵を切ったそうだ。

世界は再生可能エネルギーにシフトしつつあり、たとえば風力発電の分野では今や中国が最大の発電量を誇っている(2017年)。風力発電をけん引してきた欧州でも続々と大規模な洋上風力発電所が誕生している。

こうした世界の潮流に日本は完全に乗り遅れている。自民党公明党の政府与党が原発をベースロード電源と位置づけ、電力総連などが野党を締め上げているからだ。

エネルギー問題に限らず、日本はいたるところで既得権益にしがみつき、新しい技術開発や新しい社会の枠組みづくりに後れを取っているのではないだろうか。

原発問題はそうしたこれからの日本のあり様を鋭く問うているのだ。

 

なお、 世耕経済産業相は立憲の原発ゼロ法案を無責任だと批判した。稼働開始から50年経っても使用済み核燃料など膨大な量の放射性廃棄物のゴミ捨て場をつくら(れ)ずに、ゴミを出し続けている自民、公明こそが立派に責任を果たしていると言っているのだろうか。ゴミ捨て場をつくろうとすると評判が悪く支持率が下がるため、知らぬフリや先送りをして選挙に勝利することこそが政治家としての責任ある態度なのだろう。

ヤバいぞ、日本!